キリスト教が日本に伝わった際に、創造主を『神』と翻訳したことが間違いで、本来なら古代中国の『天の思想』、
いわゆる
・「人事を尽くして天命を待つ」
・「天は二物を与えず」
の『天』を当てはめた方が適切だったのではないか、という議論は19世紀からあるそうです。
唯一絶対の万能者と契約を交わすのがユダヤ教、および そこから派生したキリスト教や イスラム教です。
これは日本の『神道(しんとう)』とは、発想が異なります。
神道の場合は、
「八百万の神(やおよろずのかみ)」
と言う様に、あらゆるものに『神』が宿るという自然観ですね。
あらゆるものに神が宿るということは、信仰対象になる様な神は ほんの一握りで、圧倒的大多数の神は マイナーな存在であるということ。
日本の自然は、四季の移り変わりによって もたらされる恵みと、地震・火山噴火・台風・洪水・津波といった天災の、『飴と鞭バランス』が取れているので、『多神教』である自然崇拝(アニミズム:生物・無機物を問わない すべてのものの中に霊魂が宿っているという考え方)が根付いたと考えられます。
なお 脱線ですが、自然の恵みが少なく『鞭 一辺倒』な過酷な気候の場合、多神教ではなく
「唯一絶対の万能者からの庇護」
を 心の支えに踏ん張る信仰が普及しやすく、ユダヤ教、および そこから派生したキリスト教や イスラム教といった『一神教』が”砂漠”で発祥したのは、文化人類学・宗教民俗学的に整合性が高いそうですよ。
そんなこんなで、本来の『神』とは「万物に宿る意識・魂」ぐらいの意味なのです。
なので、『神気の経脈』を私が現代風に言い換えると、『意識の通路』ですね。
これだと、現代日本人の多くが思い描く『神経』のイメージに合致するかと思います。